この世全ての悪にされる「おじさん」の話

 あんまりこんな話はしたくないんですけど、徐々に蓄積されて来たものが溢れかえりそうなので吐き出しておきます。ストレスは発散しよう。流石にツイで垂れ流すのは躊躇したのでブログを作ってしまった。毒に侵されるはてなちゃん可哀そう。

 読みたい人は是非読んでもらい、毒を見たくない人は帰った方が良いです。僕自身毒耐性は低い……。では本題に。大前提として僕は青二才の男子です。春からは社会人。そんな小僧が感じている窮屈さがありましてね。

 

 最近バズった物申す系ツイがTLに回って来て、中身も正当性があるように見えたので読んでみたのですが、その中で、「○○してくるジジィ」といった文言がありました。その後何度も「ジジィ」は出現し批判の的とされていたのですが、「ああ、またこの流れか」と。思わず溜息。メンタル弱ってる時は胸が締め付けられる事もある。

 何故わざわざ「○○してくる人」ではなく「ジジィ」が引き合いに出されるのか?それが良く分からない。折角中身はちゃんとしてるのにこの一語があるだけでゲンナリしてしまった。

 確かに日本は男社会と言われ、その生産人口は中高年男性、皆大嫌い我らが「おじさん」が担っている。管理職の男性率も未だに高い。そういったことから支配者層たるおじさんへの怨嗟や不満が蓄積されているのだろうか。統計学的に絶対数が多いのだから仕方ないのかな?だが、かと言って、何でも悪さをする人々を「おじさん」ないし「ジジィ」に限定して欲しくなかった。この点は極めて残念だった。

 

 身も蓋もない事を言ってしまえば善い人は善い人だし悪い人は悪い人だ。今日家に帰るときにエレベーターを先に譲ったおじさんは、頭を下げて「有難うございます」と言ってくれた。スマホ弄ってたけどね。老若男女関わらずクズはクズだし聖人は聖人。コンビニバイトしてるとしばしば感じた。店員をロボットとしてではなく人間として接してくれる人の何と有り難い事か。「人」って便利な単語があるのにわざわざ「おじさん」を引き合いに出してくるの、どうしてなんでしょ。怨嗟があるのか気軽に言っちまっても良いだろって感じかな?「ババァ」や「おばさん」は圧倒的に見ない。

 社会の敵、即ちスケープゴートにも見えるおじさん達。ナチス時代のユダヤ人政策とまではいかんけど、取りあえず敵に出して叩いとけ感が凄い。敵を作れば結束して不満が解消される構造ですね。酷い時は、いつの間にか議題がすり替えられてて「男が悪い!」ってなる。もううんざりだ。この悪い意味での「友・敵」構造はいつまで続くのか(『友・敵』論については話がズレるので後述します)。

 

 最近テレビを見る機会が減っているのですが、その理由は「男なら安易に叩いても良い、いじっても良い」風潮にあります。昨今のメディアで溢れかえっているでしょう、男に物申す系番組や、旦那はとにかく尻に敷かれるのが面白いと思ってるドラマ。CMでも、男性を小馬鹿にしてウケを狙っている作品は多々見ます。旦那のコレクションを勝手に売ったり捨てたりして話題になった番組もありましたね。

 視聴率や戦略性から仕方ないのかもしれませんが、どうにも好きになれません。何故男女「平等」な家庭を描かないのか?夫婦共に仲良く、お互いを尊重して、時には喧嘩もして、かかあ天下だの亭主関白だのと言った言葉の無い環境。それこそ望ましい物なのではないのか?円満な夫婦ののろけ話やドラマを見ていた方が断然楽しいし健康的では……?それにその方が「結婚したいなあ」って思う人だって増えるのでは。ギスギスしたものは捨て置けよ。過激な一部のネット民ならいざしらず、メディアまでこの意気ではグゴゴゴとしかなれない。

 男女平等、女性の社会進出とは、「男を叩く事である」を意味するものではないでしょう。しばしば取り上げられる用語たるフェミニズムが間違って広まってる気がする。パーフィット(i)が述べたように、目的論的平等主義における水準低下批判に通づるものがあるのでは。即ち、「不平等を無くす為にさ、境遇の良い側にダメージを与えて水準を下げ、しかも分け与えるでもなく境遇の悪い人の環境は一切変えずに皆貧乏になりましょう!これも平等です!って馬鹿げてねえ?」みたいな論です。貶したり喧嘩したりして得られる平等なんてものは幻想でしかないでしょう。

 

 留学中、仲間の女の子が「世の中が悪い原因は全ておっさんや!おっさんに良い奴なんかおらん!」と半ば本気で言ってたの思い出した。賢い子だったのにどうしてそんな思考停止になってしまったのか、流石に理解に苦しんだ。しかも実際のおじさん被害は殆ど無かったのだから驚きだ。僅かな体験で「○○は××だ!」と決めつけるのは極めて危険な行為でしょう。目の前におっさんになる男子がいたのですが。

 

 僕も将来おじさんになります。出来る限り善良な市民として生きるつもりです。ですがおじさんというだけでレッテル張り、偏見の目にさらされるのは勘弁だなあ。やるせなさがありますよ。

 総括しますと、安易に「おじさん」を非難の単語として使わないで欲しいってこってす。男社会への批判や性差別問題ならまだしも、人類全てに通じる悪い事を「おじさん」に押し付けられるのは苦しい。僕はメンタルが弱っちい男です。とても悲しくなります。フェミニズムや女性を蔑視するつもりは毛頭ございませんし、女性ってだけで貶す男性も同じ男として許せる生き物ではありません。

 社会経験が浅いからこんな事が言えるのかもしれません。歳を取ったらおじさんへの憎悪が増幅しまくってアヴェンジャーになっている可能性も捨てきれない。

 物申す事は悪くありません、けれどもその対象をどこに持っていくのか、「人」なのか「ジジィ」なのか、投稿前に一瞬考えて欲しいのです。

 「そんなの知るか甘えるな!お前は男だから分からないんだ!おじさんから受ける被害は枚挙に暇がない!」って方はどうぞこのまま続けて下さい。人には千差万別の考え方があります。僕は僕で貴方を敬愛なるC.シュミット先生流による「敵」として認識しほったらかしておきます。お互い干渉しない、それが戦争を防ぐ最良の策でしょう。

 

 駄文ですが、つらつらと失礼致しました。結構ストレスやモヤモヤも解消出来て来たぞ!文に起こすって大事だね。殆ど毒だからアレだけど。我を忘れた危ない文にならなくて良かった(当社比)。バックで流してるケイン・コスギさんの配信で同時に浄化されながらの作業だった。本当に笑顔に慣れるからオススメですよ、健康的なゲーム実況がここにある。

 さて、明日は極めて大事なバイトがあります。朝も早いからこんな悩みは馬鹿げたもんだと一蹴して元気に寝ましょ。そして馬車馬のように働いてお金をもらいましょう。

 ではではー。はてなちゃんもお疲れ様な!

 

 

・本筋からズレた話(ここらへんは僕の自己満足。読まなくても全然問題ないです)

 C.シュミットの「友・敵」構造はその名の通り人々を友(こちら側)と敵(あちら側)に分ける考え方です。敵とは、ただ単に異質な者であると言うことだけで事足りるとされます。偽りの仲良しごっこを無くすことも目的としていた。無理矢理に敵を味方にしようとしてもこじれるだけって事ですね。だったら最初から敵として認識しとけと仰る。

 ただ敵を見定めた後は、言葉の過激さとは裏腹に紛争の回避に努める。つまり、「アイツは理解出来ないから不干渉としよう」とする。一見ドライではあるが、無理して交渉しようとしたり仲良くしようとしたりすると無駄なストレスを生み出すし「何故分からないんだ!」と不必要な戦争に発展する恐れもある。世俗的な例で言えば、解釈違いが起きても喧嘩をしないで「そう言う考えもあるのね。俺は分からんけど」で済ませとくって感じ。時には関わらないことも平和に繋がる。ですが別な解釈も多く、上述したように単に対立煽りとしての用語として考えられる場合もしばしばあります。ムツカシイネ。

 

参考文献

i 広瀬巌(2016)『平等主義の哲学』(斉藤拓訳)p82-83